僕の両親は結婚すると親父の転勤で長崎に暮らしていたが、数年後に親父は福岡に移動になった。その時お袋のお腹の中に僕がいたので、出産と育児を考え、福岡で暮らす祖母(母方)の家で暮らすことになった。祖母の自宅は小さな商店を営んでおり、祖母は一人でその店を切り盛りしながら暮らしていた。
祖母は昔幼い息子二人を病気で亡くしており、初孫の僕が生まれると祖母は随分と喜び、まるで我が子のように僕を可愛がったそうだ。僕が生まれ数年が経つとお袋も働きに出るようになり親のいない間は祖母が僕の面倒を見てくれた。
その後、妹が生まれ家族が増え祖母の家も少し窮屈になったので、僕が小学校に上がると両親は祖母の家の近所に家を購入し僕等はそこに引っ越した。毎日、学校が終わると近くの祖母の家に向かい、親が仕事から戻るまでの時間を祖母の家で過ごした。祖母の暮らしは楽ではなかったが、僕らが学校から帰ると店のお菓子をおやつでくれた。
時間が経過し、僕が成人すると祖母は僕の名前の書かれた通帳と象牙の立派な印鑑を僕に贈ってくれた。その通帳の預金高には1,000,000円が記されていた。
「婆ちゃんはあんたが成人する時、お祝いに1,000,000円を渡すっと言って、あんたが生まれてから20年コツコツとお金を貯めよったんよ」
お袋がそう教えてくれた。
ところで僕は長い間広告業界で働いているが、広告業界やマスコミ業界では売上金額が数千万円、数億円になることもよくあり金銭感覚が少し麻痺してしまうようだ。やたら周りに聞こえるような大声で大きな売上金額を口に出し自慢している者も多い。決して自分の懐に入る金額ではないのに…。
新型コロナウィルスで売上が著しく落ち込んだ個人事業主に政府は持続化給付金1,000,000円の支給を始めた。政府広報などでその金額を目にしたとき、ふと祖母から貰った1,000,000円を思い出した。どちらも同じ金額で価値は同じなのだが、その金額の中にある想いは全く異なる。
祖母は質素な生活を送りながら僕の成人の祝いのために20年間もコツコツとお金を貯めてくれた。祖母が僕に贈ってくれた1,000,000円は長い年月の重さと、大きな愛情が刷り込まれていたように感じた。
少し麻痺していた僕の頭が元に戻った。
written by ダニエル
夏のボーナスシーズンになりボーナスが振り込まれる日を多くの人が心待ちにしているだろう。中には新型コロナウィルスの影響でボーナスが減った方もいるだろうが、ボーナスは働いている全ての人が貰えるわけではないので感謝し大切に利用してほしい。ボーナスシーズンになると僕は必ず思い出すことがある。
若い頃、見栄を張ってローンで中古のBMW7シリーズを購入したが、初回のローンの返済日が来る前にそのBMWを事故で廃車にしてしまった。車は無くなりローンはまるまる3年残った。僕はローンにボーナス払いを併用していたので、ボーナスが振り込まれると右から左に消えて無くなった。僕はその苦い経験から「今後はローンを組むことはしない」とマイルールを決め、全てにおいてお金を貯めてから現金で購入するようになった。
住宅などの資産は耐用年数が長く減価償却に長い年数が掛るのでローンで購入しても構わないと思っている。(ちなみにローンを組まないと決めた僕は未だに自宅を購入していない)逆に車など耐用年数が短い物はできるだけローンを組まず現金で購入するべきだ。車の耐用年数は短く新車の場合で減価償却期間は会計上6年と決まっている。
例えば300万円の車を購入すると毎年50万円(総額の6年分の1年)を減価償却することになり、この車の価値は毎年50万円ずつ減っていく。仮に5年で60回払いのローンを組んだ場合、ローンの完済時の車の価値は約50万円になっている。この価値は新車で未使用車の場合で、外装や内装が劣化し走行距離が嵩むとさらに価値は下がってしまう。
またローンを組むと当然のことだが金利が発生するので、現金で一括購入するより多くの費用を支払うことになり、余裕がないのであればローンまでして新車を買うより現金で中古車を買うべきだろう。そうすれば僕のように事故で車が廃車になってもローンが残ることはない。
ボーナスは会社の業績に合わせ支給される臨時収入なので、家や車など大きな買い物をする際はできるだけボーナス払いを利用せず貯金や投資に回すべきだろう。今回のように新型コロナウィルスの流行という不測の事態が起きボーナスが減ってしまうと、ボーナス併用でローンを組んでいる人はキャッシュフローが一気に狂ってしまう。
先週のブログに書いたが「吾唯足知」。ボーナスが支給される時期だからこそもう一度思い出してほしい。
written by マックス
世界遺産に登録され石庭で有名な京都の龍安寺に、水戸黄門のモデルになった徳川光圀公が贈ったとされる蹲踞(つくばい)がある。蹲踞(つくばい)とは茶室の露地に低く置かれた石製の手水鉢のことで、茶客が茶室に入る前にここで手を清めるために設置されている。
その蹲踞には中央に水を溜めおくための四角い水穴があり、その四角い水穴の上下左右に漢字が刻まれている。四角い水穴は上下左右の4つの漢字の「へん」や「つくり」で「口」の部首にあたり、4つの漢字に「口」の部首を加えて時計回りに読むと、「吾唯足知」(われただたるをしる)と読むことができる。
この言葉はお釈迦様の「知足の心」を表しており、「足るを知ること」で自分の身分をわきまえむさぼりの心を起こさないことや、際限なく欲を求めるのではなく、自分の身の丈にあった必要なものと、その量を知ることを意味する。
人は今の自分が幸せなことを忘れてしまう生き物で、周りと自分をいつも比較し欲望や欲求が大きくなり、足りないことに頭を巡らせ自分がどこか不幸のように思えてしまう。世界中には70憶もの人が暮らしており、自分よりも幸せで豊かな人もいれば、自分よりも不幸で貧しい人も大勢いる。しかし毎日の生活に追われ自分の気持ちに余裕がなくなると自分を見失い、いつの間にか周りに流され不平不満が溢れ欲求を抑えることができなくなってしまう。
物心の付いた僕にお袋はよくこう言った。
「上を見りゃキリがない。下を見てもキリがない」
当時、僕はその言葉をなかなか理解せず洋服や時計など高級ブランドに憧れ、派手な飲食店で酒を飲み、お金を浪費する生活を送っていた。そして今より経済的に余裕のある生活を強く望んでいた。
しかし年齢を重ねると、以前のような強い欲求はいつの間にか小さくなり、物を大切に使うようになり無駄な物を捨てるようになった。
今年に入り新型コロナウィルスの感染拡大で外出することができず、自宅に籠る日が続くと外で酒を飲むことが全くなくなり、毎日、愛犬Q次郎と散歩に出掛け、風呂に入浴剤を入れ温泉気分を味わい、風呂上りに冷えたビールを頂くなど穏やかで小さな幸せを感じる毎日を過ごした。
新型コロナウィルスが僕に「吾唯足知」の心を強く教えてくれたように思う。
written by チュグアナ