忘年会など飲み会の増えるこの時期は飲酒運転も増加し、福岡では連日のように飲酒運転で検挙された報道が続いている。僕は以前、福岡商工会議所から依頼され、福岡市役所前の広場に飲酒運転撲滅のモニュメントをプロデュースしたことがあり、飲酒運転の増えるこの時期に大きな事故が起きないか心配になる。
ところで昔は飲酒運転に対する罰則は無く、道路交通法が制定されたのは1960年だと言う。道路交通法が制定された当初は、「飲酒運転を全面的に禁止するのは少々やりすぎではないか?」との声も多く、基準値が呼気1ℓ中のアルコール量が0.25mg以上の場合のみ運転が禁止されていた。その根拠は当時の飲酒運転の実験で呼気1ℓ中のアルコール量が0.15mg以上で運動能力に影響が出始め、0.25mg以上で心身機能にも影響が及んだからだと言う。ちなみにビール中びん1本、日本酒1合、ウィスキーダブル1杯程度飲んでも呼気1ℓ中のアルコール量が0.25mgに満たないそうだ。
しかし基準値未満の酒気帯び運転はやっても良いと誤解を招くことから、1970年に基準値に関係無く飲酒運転は全面的に禁止された。また罰則は基準値である呼気1ℓ中のアルコール量が0.25mg以上の場合の酒酔い運転とされ、違反点数15点、2年以下の懲役または10万円以下の罰金となり、基準値未満の酒気帯び運転では違反点数6点、3か月以下の懲役または5万円以下の罰金と多少厳しくなった。それでも飲酒運転は全国で日常的に繰り返され、当時、僕も酒気帯び運転で検挙され免停処分になった経験がある。
その後、2006年に福岡市の海の中道大橋で起きた飲酒運転事故を境に飲酒運転撲滅の気運が一気に高まった。この事故は福岡市職員が居酒屋などで飲酒後、車を運転し海に架かる橋の上で家族5人乗りのRV車に追突し、追突されたRV車は橋のガードレールを突き破り約14m下の海面に転落。そしてRV車に乗っていた幼い子供3人が溺れて死亡した痛ましい事故だった。
そして事故の翌年の2007年に道路交通法はさらに厳しく罰則化され、今では酒酔い運転は違反点数35点で5年以下の懲役または100万円以下の罰金、酒気帯び運転は違反点数25点で3年以下の懲役または50万円以下の罰金となった。また飲酒運転者だけではなく運転手の周辺者に対する罰則も設けられた。
酒を飲む機会の増えるこの時期はもちろん、日頃より飲酒運転をしてはならない。酒を飲むと気は大きくなり冷静な判断はできなくなってしまう。もし飲酒運転で人身事故でも起こしてしまったら、家族はもちろん周りの多くの人を悲しませてしまうことになり、本人や家族は一生、十字架を背負って生きることになる。
「飲んだら乗るな、飲むなら乗るな」この言葉に尽きる。
12月に入り、出番を待っていたかのように冬将軍が到来し福岡でも気温は10℃を下回った。愛犬のQ次郎と毎晩一緒に寝ているが、今朝のQ次郎は寒かったようで布団の中から出てこなかった。
ところで9月に歯医者に出掛けると、僕は就寝時に歯を食い縛っているようで歯に負担が掛からないようにマウスピースを付けて眠ることを勧められ、歯型に合わせてマウスピースを作った。マウスピースを付け始めの頃は口に違和感が有り、寝ている間に無意識にマウスピースを外し、毎朝、布団の中からマウスピースを探していた。さらにQ次郎が外れたマウスピースを咥えて投げて遊んでいたこともある。幸いにもマウスピースは変形していなかったので良かったが…。
ようやくマウスピースに慣れ、朝までマウスピースを付けて寝ることができるようになったが、マウスピースは少し厚みが有り慣れないと口を開けたまま眠るので、朝まで鼾をかいているそうだ。しかも朝起きると、一晩中鼾をかき口呼吸しているので、口の中はカラカラに乾燥し喉が痛い。乾燥した冬場に口呼吸で眠ると喉が乾燥し風邪を引いてしまうので、鼻呼吸を促す口に貼る絆創膏を買った。
絆創膏を使い始めた頃、朝起きると決まって絆創膏は口から外れ頬や額などに貼り付き、さらに一緒に寝ているQ次郎の頭や体に絆創膏が貼り付いていたこともある。最近では絆創膏にも慣れ、絆創膏を口に貼ったまま眠ることができるようになり、口の中は乾燥しなくなった。
年齢を重ねると病院やドラッグストアで医薬品などを購入することが増えてきた。マウスピース、マウスピース用の洗浄剤、口腔消毒剤、口に貼る絆創膏…今まで想像をしていなかった物ばかりだ。しかも昨年から発毛剤のリアップを購入しているのでやたらと費用が嵩む。そのため近所のドラッグストアのポイントカードは通常の2倍ポイントの貯まるゴールドカードにランクアップし店員とも顔馴染みになった。(ちなみにリアップのお陰で髪の毛はしっかり増えてきた)
あまり嬉しくないが、来年、近所のドラッグストアのポイントカードは通常の3倍ポイントの貯まるプラチナカードにさらにランクアップするかもしれない。
部屋の窓から向かいの家に植えられた2本の大きな銀杏の木が望め、毎年、この時期に2本の銀杏の木は全身を黄金の葉で纏い周囲に癒しと感動を与えていた。しかし家を建て替えるようで、家は解体され2本の銀杏の木も「勤労感謝の日」に切り倒されてしまった。以前は「勤労感謝の日」は五穀豊穣を祝い感謝する「新嘗祭の日」だったので、わざわざこの日に切り倒さなくても良いものを…。
ところで日本の祝日には、ハッピーマンデー制度により土曜、日曜、月曜を3連休にすることを目的に、定められた日から移動する祝日と、定められた日から移動しない祝日がある。移動する祝日は社会情勢などから祝日になったもので、「海の日」や「スポーツの日」などがある。逆に移動しない祝日は日本固有の特別な意味を持つ祝日で「勤労感謝の日」は移動しない祝日だ。
「勤労感謝の日」が祝日として制定されたのは1948年で、祝日に関する法律の条文には「勤労をたっとび(尊び)、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう日」とある。この条文が示す通り、「勤労感謝の日」は働く人々の勤労に感謝する日だが、そもそも「勤労感謝の日」は、「新嘗祭」という祝祭が行われる日だった。
「新嘗祭」は五穀豊穣を祝う日本古来の風習で、日本書紀にも記述が見られる日本の伝統行事を行う日だ。元来は、収穫した農作物を皇祖や神々にお供えするという宮中行事が行われ、現在も11月23日になると天皇陛下が自ら新穀を神々に供え、その年に出来た農作物を召し上がるという習わしが続いている。しかし先の大戦で日本はアメリカに敗戦し、当時、日本を統治していたGHQは宮中行事と国民行事を切り離す必要があると考え、「新嘗祭」を「勤労感謝の日」に改め、宮中行事と切り離した祝日に定めた。
五穀豊穣を祝う日が、なぜ勤労を感謝し合う日に変更されたのか諸説あるが、アメリカの祝日が関係しているという。アメリカでは、11月の第4木曜日に感謝祭を催す「Thanks giving Day」があり、そこで9月の第1月曜日に定められていた「Labor Day」労働の日の概念を加えて、「Labor Thanksgiving Day」すなわち「勤労感謝の日」として制定されたという説が有力だ。
平成は天皇誕生日が12月23日だったので、その日が一年で最後の祝日だったが、令和になり天皇誕生日が移動したことで、11月23日の「勤労感謝の日」が一年で最後の祝日になった。「勤労感謝の日」が過ぎ、あと1カ月もするとクリスマスが訪れ年の瀬になる。
来年の秋に部屋の窓から黄金の葉を纏った2本の大きな銀杏の木を見ることができないとは、何とも寂しい。