2月の後半になると三寒四温の日が続き、まるでルーレットのように寒い日と暖かい日が交差する。今週、運悪く寒い日にお得意と久しぶりの会食することになった。若い頃は上手な酒の飲み方も知らず、酒を勧められると注がれた酒を直ぐに飲み干し酔っぱらっていたが、この歳になると酒を勧められるより勧める側になった。
2軒目のバーに入りお得意が何を飲むか迷っていたので、僕はある酒を勧めようと店員に有無を尋ねると、店に置いていると言う。お得意にその酒を飲んだことがあるか尋ねると、飲んだことは無く名前すら聞いたことも無いと言うので、話のネタにその酒を勧めた。
その酒は「スピリタス」と言うウォッカで、ポーランドで製造されアルコール度数が何と96度で世界最高のアルコール純度を誇る酒だ。その高い度数ゆえ成分のほとんどが純粋なエタノールでタバコの火を近づけると引火してしまう。日本では消防法の第4類危険物に該当しガソリンと同等の管理が必要だが、置いてある飲食店では度数が高く凍らないので冷凍庫に瓶のまま保管している。
いよいよテーブルにワンショット(約30ml)で小さなグラスに注がれたストレートの「スピリタス」が運ばれてきた。あまりにも小さなグラスに注がれているので可愛く見えるが、世界最強の酒だ。お得意に「スピリタス」の度数など説明すると、お得意はグラスの中に指を入れ、少量の「スピリタス」をテーブルに広げ煙草の火を近づけた。その瞬間、「ボッ!」と音を立て炎が上がった。ほろ酔いのお得意は大喜びで何度もそれを繰り返し、スマホで動画を取る始末。そして落ち着きを取り戻したお得意は遂に「スピリタス」を口にした。
「うわっ、熱っ、喉が焼ける!この酒、喉から胃に入っていくのが分かるな…」
その日、お得意は酔っぱらって上機嫌で帰って行った。
僕が若い頃、仲間うちの飲み会で罰ゲームとして「スピリタス」をイッキ飲みして、皆、泥酔していた。またイッキ飲みより恐ろしい飲み方がある。それは医療用カプセルに「スピリタス」を入れ、他の酒でカプセルを飲む飲み方で、「スピリタス」の強烈なアルコールの刺激を感じることなく高度数のアルコールを体に入れることで、酔うまでの時間を短縮することができるそうだ。こんな飲み方をしていると急性アルコール中毒になってしまうので、僕はやったことはないが。
「スピリタス」何とも強そうな名前を持つこの酒。僕はこの先、「スピリタス」を飲むことはもう無いだろう。
学業の神様で知られる太宰府天満宮の境内には約6千本の梅が植栽されており、もうすぐ見頃で、あと1カ月もすれば桜の開花も始まり本格的な春が訪れる。桜が満開になると愛犬Q次郎を連れて花見に出掛けよう。
ところで今冬は火災が多く発生し消防車のサイレンを何度も耳にした。先日も夕方風呂に入っていると、サイレンが聞こえるので風呂の窓を開けて外を覗いてみると、消防車が数台列をなし勢いよく走って行く。サイレンは自宅近くで止まったので、どうやら近所で火災が発生しているようだ。風呂から上がりスマホで火災現場を検索すると、自宅から300mほど離れた建物で火災が発生していた。近所での火災だったので、ふと子供の頃の記憶が蘇った。
お袋は看護婦で自宅近所の病院で働いており、夜勤の日は決まって深夜に帰宅する。お袋は仕事が終わると節約のため病院の公衆電話からワンコールで自宅に電話を掛け、自宅の固定電話が「リ~ン」と1度鳴ると、親父はお袋を迎えに直ぐに家を出て行った。
お袋が夜勤のある夜、小学生だった僕は床に入ってぐっすり眠っていたが、突然、親父に叩き起こされた。
「おい!起きろ!近くで火事や!」
そして僕はパジャマのまま火災現場に連れ出された。その夜、いつものように自宅の電話が鳴り親父がお袋を迎えに行った帰り、自宅から数百メートル離れた上空が赤く染まっていたので、自宅に戻ると直ぐに親父は消防署に通報したそうだ。
火災現場に着くと消防隊はまだ到着しておらず、燃えている家の隣人数人がバケツに入った水で消化していたが、まさに焼け石に水で火の勢いは増すばかり。無数の火の粉が周囲に降り注ぐ中で住人なのか、年配の女性が大きな声で泣き崩れている。僕は真っ赤に燃え上がる光景を目の当たりにし恐怖で呆然としていた。すると親父が僕にこう言った。
「おい!よう見とけ。火事の怖さをちゃんと覚えとけ!」
間もなくして消防隊が現場に到着すると手際よく放水を始め火の勢いは弱くなった。その後、お袋に手を引かれ自宅に戻る途中、お袋が言った。
「あんた、ぐっすり寝とったけん起こさんどこうと思ったけど、お父さんが火事の恐ろしさばちゃんと見せといた方が良いと言うけん…眠いのにごめんね」
もうすぐ桜の咲く穏やかな春が訪れるが、これからも乾燥した日は続く。火事にはくれぐれも気を付けてほしい。
(今年から自分のことを“私”と表現するはずだったが、あまりにもしっくりこないのでやはり“僕”と表現することに)
立春を過ぎ、冬と春のせめぎ合いが続いている。もうすぐ皆が心待ちにしている新緑のまぶしい春が訪れ、多くの若者が新たな道へと踏み出していく。
今週、パラリンピックの車いすテニス男子シングルスで3つの金メダルを獲得するなど、数々の偉業を成し遂げた国枝慎吾選手が引退会見を行った。
国枝選手は9歳の時、不幸なことに脊髄腫瘍で下半身麻痺になり車いす生活を送ることになった。もともと彼は少年野球チームに所属するなど活発で明るい少年だったが、車いすの生活になったことで当時の落ち込みようは相当なものだったという。車いすの生活から2年が経った頃、母が趣味でやっていたテニスに国枝選手を半ば強引に連れ出し、彼は初めて車いすテニスを体験する。それ以降、彼は車いすテニスにのめり込み、2009年4月に日本パラアスリートとして初めてプロに転向した。
その後、彼は並々ならぬ努力を重ね、2021年に開催されたパラリンピックで東京大会を筆頭に、シングルスで3つの金メダルを獲得。さらに昨年7月、ウインブルドンでシングルス優勝を果たし、車いすテニス男子シングルスで初となる生涯ゴールデンスラム(四大大会とパラリンピックを制覇)を達成する偉業を成し遂げた。
国枝選手は「オレは最強だ!」と書いたテープをラケットに貼っていることで知られるが、引退会見で彼は自身のメンタルの弱さを語った。メンタルの弱かった国枝選手はメンタルトレーニングを世界ランキング1位になる前から続け、「俺は最強だ」と常に言葉に出しながら練習を行ったことで、練習の質が向上したという。そして記者会見で彼はこうも語った。
「成績やタイトルでやり残したことはない。本当にやりきったなという現役生活を送れたことは最高の幸せだったと思う」
五体満足な体を持っていても多くの人は偉業を成し遂げることは難しい。しかし国枝選手のように障害という大きな困難を乗り越え偉業を成し遂げる人もいる。彼のように偉業を成し遂げることはできなくても、彼の言った「最高に幸せだった」と、最後に言える人生は素晴らしい。
もうすぐ春。「最高に幸せだった」と最期に言えるよう、新たなことに挑戦する季節だ。