延期されたオリンピックが始まり、世間ではオリンピックの話題で盛り上がっているようだ。小学生の頃は前日放送されたテレビのアニメやバラエティー番組の話題で友人と盛り上がり、中学や高校では友人のことや部活の話題で盛り上がった。社会人なると友人とは仕事の話題に変わり、成長の過程で話題も大きく変わったが、いつまでたっても他人の話題が大好きな人がいる。僕の取引先にもやたらと他人の話をする人がいる。
「〇〇さんが仕事を辞めたそう…」
「○○さんは仕事がトラブったそうで…」
「〇〇さんと〇〇さんの仲が上手くいってないようで…」
「○○さんが離婚したそうで…」
このタイプの人間は表敬訪問と言い、突然、事務所を訪ねて来ては長時間、他人の話ばかりするので付き合うのが大変だ。このタイプの人間はきっと自分に自信がなく情報も乏しいうえ会話力もないので、他人を話題に出すことで少しでも自分に興味を持ってもらおうとしているのだろう。当然、このタイプの人間は僕のことも他で色々と話題にしているだろうから、僕は自分のことを多くは語ることはせず、仕方なく相槌を打ちながら話に付き合っている。
このタイプの人間は田舎に住んでいる人に多いように思う。田舎は都会と比べて刺激的なことや話題が少なく近所付き合いが多いので、近所でいつも井戸端会議のように他人のことを話題にしているのだろう。このタイプは女性に多いと思っていたが、年齢を重ねたおっさんにも意外と多い。またこのタイプの人間は仕事ができないように思う。仕事ができない人間は仕事のできる人間と比べ仕事量が少ないので、時間に余裕があるのだろう。逆に仕事のできる人間は効率良く仕事をこなさないと自分の時間を作れないので、他人の話に首を突っ込んでいる暇はない。
在宅勤務を始めて半年になるが、良かったことのひとつに他人の話ばかりする人間と会うことが無くなったことだ。在宅勤務を始めると人との関りが減り、逆に自分の時間が増えるので自分のペースで毎日を過ごすことができる。僕は在宅勤務向きのようで、比較的涼しい早朝から午前中に仕事終え、空いた時間でスポーツクラブに通い読書や映画を観て過ごしている。
きっと他人の話題が好きなタイプは在宅勤務が不向きだろう。
例年より早く福岡は梅雨明けし、僕の大嫌いな暑い夏がやって来た。これから2カ月も暑い日が続くと思うと憂鬱だ。
新型コロナウィルスの流行で昨年開催される予定だったオリンピックは1年延期され、いよいよ来週開幕する。オリンピック期間中、東京は新型コロナウィルスの再拡大で緊急事態宣言が発令され、オリンピック競技の殆どが無観客で行われるため盛り上がりは欠ける。そうまでしてオリンピックをやらなければならないのだろうか?新型コロナウィルスが収束してからでも良いのではないだろうか?
オリンピックは「平和の祭典」と言われるが、新型コロナウィルスの影響で飲食店や観光業は客が激減し火の車のような状態で、さらに職を失った人も多く果たしてこの時期が平和と言えるのだろうか?
オリンピックを運営するIOCや大手広告代理店などはボランティアで活動しているわけではなく利潤を追求し、コロナ禍の緊急時にオリンピックを強行することに多くの人が疑問を抱き、深い闇に包まれたオリンピックを多くの人が胡散臭いと思い始めた。
ひと昔前、テレビは手軽に情報を入手する手段で家庭の娯楽でもあった。しかし今はインターネットが普及し、家庭では個別にオンデマンドで動画やゲームを楽しむ時代だ。その時代に世界中をひとまとめに考え、テレビ放映によって利益を上げることは時代錯誤だ。しかも新型コロナウィルスが収束していない緊急事態宣言下で行われるのだから非難されても当然だろう。
また政府も国民の安全を真っ先に考えるのではなく、オリンピックありきで物事を考え、オリンピックを中止することなく開催へ突っ走ることは、先の大戦に突入する頃の日本政府によく似ており重なってしまう。先の大戦は政府が戦争を強く望み、そして世論も戦争へと傾倒していった。
これからの時代はオリンピックの運営のように閉ざされたものではなく、全てがオープンで開かれたものでなければならない。また多様性を理解し全てを大きな集団で考えず、小さい集団や個人を理解した考え方が必要だ。
一体、人口減少が加速する日本で膨大な税金を投入し建設されたオリンピック施設は、これからどう利用していくのだろうか。そして全てが負の遺産になってしまうと誰が責任を取るのだろうか…。
2年前の7月9日、午前3時半に愛犬Q太郎は天国へと旅立った。その日の朝、僕はQ太郎がかかりつけだった動物病院に連絡し、Q太郎が死んだこと、それに今までのお礼を先生に伝えた。そして動物病院の先生に紹介してもらったペット霊園に電話を入れた。僕は死んだQ太郎の傍に少しでも長くいたたかったので遺体が腐敗しない日数を尋ねた。夏場だと発泡スチロールのケースに保冷剤を敷きその上に遺体を安置すると、3日は大丈夫と言うことだったので3日後に火葬の予約を入れた。それから3日間、僕は死んだQ太郎の横で過ごした。火葬の日、Q太郎が大好きだったペット用のキャリーケースに花を敷き詰め、その上にQ太郎を寝かせ火葬してもらった。
Q太郎は毎日のように僕と同じベッドで眠り僕の隣で食事を取り寝食を共にしていたので、僕はペットロスで心が重い毎日を過ごした。そんなある日、「僕のワンダフル・ライフ」という映画を観た。その映画は犬と飼い主の強い絆を描いたもので、主人公の子犬が死にかけたところをある少年に救われ、その少年に飼われることになる。飼い主の少年と子犬はいつも一緒に過ごしお互い成長するが、犬の寿命は人間より短く、やがてその犬は大人へと成長した飼い主に看取られ死んでしまう。しかしその犬は命を助けてくれた命の恩人である飼い主に会いたい一心で何度も転生を繰り返し、遂に初老になった飼い主に別の犬に生まれ変わり再会を果たす。
その映画を観て、僕は毎日のようにネットで犬の里親を探すサイトやブリーダー直販のサイトを閲覧し、Q太郎の生まれ変わりの子犬がいないか探した。僕が探していた犬はQ太郎が死んだ7月9日以降に生まれのQ太郎と同じミニチュアダックスだった。
そして8月下旬、僕はあるブリーダーのサイトに掲載されたミニチュアダックスの写真を見つけた。その犬は7月30日に生まれのブラック・タンのミニチュアダックスの子犬で、その子犬の写真の後ろには犬のおもちゃのぬいぐるみが映っていた。その犬のおもちゃのぬいぐるみは、僕が以前Q太郎に買ってあげたものと同じものだったので、Q太郎の生まれ変わりかもしれないと思いブリーダーに連絡を取った。そして僕はその子犬がいる兵庫まで出掛けた。
今、その子犬はQ次郎と名付けられ僕と寝食を共にしている。Q次郎はQ太郎とよく似ており元気で明るい性格だ。Q太郎の命日である今日、Q次郎と一緒に自宅にあるQ太郎の骨壺に手を合わせた。
Q次郎は僕の顔を見上げ首を傾げた。