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空っぽのグラス諸君
2025年04月04日

新社会人になり初出社の朝、僕は真新しいスーツを着て遅刻をしないように早めに自宅を出た。当時、僕は期待よりも不安が大きくて、満開だったはずの桜の花は全く目に入らなかった。大学生の頃はバイトや遊びに夢中で、夜中まで友人と酒を飲み毎晩どんちゃん騒ぎの生活だったので、社会人として規則正しい生活ができるか、遅刻せずに出社できるか不安だった。

ところで毎年4月1日に掲載されていた大手飲料メーカーの新聞広告が楽しみだった。その広告は僕の大好きな作家の伊集院静氏が新社会人に向けて語りかけるシリーズ広告で、伊集院静氏が亡くなり昨年の4月1日の掲載が最後になった。昨年、掲載された広告の左にあった但し書きには、この広告は2000年4月に掲載された初回の原稿を再掲載したもので、これで最終回とする旨が記されていた。このシリーズ広告は2024年4月まで25回続き、4半世紀もの間、伊集院静氏は多くの新社会人にエールを送った。ネットで昨年の広告を検索してみると、その原稿を見つけたので紹介しよう。

「空っぽのグラス諸君」

新社会人おめでとう。今日、君はどんな服装をして、どんな職場へ行ったのだろうか。たとえどんな仕事についても、君が汗を掻いてくれることを希望する。冷や汗だってかまわない。君は今、空っぽのグラスと同じなんだ。空の器と言ってもいい。どの器も今は大きさが一緒なのだ。学業優秀などというのは高が知れている。誰だってすぐに覚えられるほど社会の、世の中の、仕事というものは簡単じゃない。要領など覚えなくていい。小器用にこなそうとしなくていい。

それよりももっと、肝心なことがある。それは仕事の心棒に触れることだ。たとえどんな仕事であれ、その仕事が存在する理由がある。資本主義というが、金を儲けることがすべてのものは、仕事なんかじゃない。その心棒に触れ、熱を感じることが大切だ。仕事の汗は、その情熱が出させる。心棒に、肝心に触れるには、いつもベストをつくして、自分が空っぽになってむかうことだ。

それでも諸君、愚痴も出るし、斜めにもなりたくなる。でもそれは口にするな。そんな夕暮れは空っぽのグラスに、語らいの酒を注げばいい。そこで嫌なことを皆吐出し、また明日、空っぽにして出かければいい。案外と酒は話を聞いてくれるものだ。

今週、満開の桜の中、未踏の地に踏み出した多くの新入社員は不安な気持ちで桜を眺めただろう。しかしあまり心配することはない。僕も空っぽのグラスに酒を注ぎ、夜遅くまで酒に話を聞いてもらい何度も寝坊した。意外にも遅刻や失敗をしても、頑張っていれば何とかなるものだ。


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