先週の金曜日、スポーツクラブでトレーニングをしていると、テレビから安倍前首相が拳銃のようなもので撃たれたと速報が流れた。安倍前首相が凶弾に倒れて死亡するとは誰も想像していなかっただろう。まさに「一寸先は闇」だ。
銃社会ではない日本で自作の銃によって前首相が射殺されるという前代未聞の事件に世界は驚きと深い悲しみに包まれた。森友問題や桜を見る会などの問題で僕は安倍さんにあまり良い印象を抱いていなかったが、安倍さんの死に同情し悲しみを覚えた。
安倍さんが殺害された日、安倍さんは奥さんの昭恵夫人と一緒に朝食を取り、昭恵夫人は元気に安倍さんを自宅から見送った。そして安倍さんが自宅を出て2時間半後に安倍さんが銃で撃たれたと昭恵夫人に知らせが入った。その瞬間、彼女は一体何が起こったのか全く理解できず混乱したのではないだろうか。
葬儀で昭恵夫人は「今も夢のようだ」と語り、出棺の前に安倍さんに頬ずりをしたと報道されていた。彼女のことを思うと胸が痛い。
ところで人は誰も皆、死を迎える。人の死は老衰(自然死)、病死、事故死、自殺、殺人、戦死など千差万別だ。死と言う自ら経験のないことに皆、不安と恐怖を感じ、誰もが穏やかな死を望む。しかし安倍さんのようにある日突然、凶弾に倒れて死ぬこともあり、また今起きているロシアによるウクライナ侵略でも多くの人が犠牲になり戦死している。過去に繰り返し起きた戦争では計り知れないほどの多くの人が犠牲になっている。
死の種類は千差万別だが「覚悟ができている死」と、「覚悟ができていない死」で大きく分けると、「覚悟ができている死」は家族も死に対する心の覚悟ができており、遺品の整理も速やかに行える。逆に「覚悟ができていない死」は突然訪れるため、家族は覚悟ができておらず心のダメージは大きく遺品の整理も大変だ。
安倍さんの死は「覚悟ができていない死」だったので、残された昭恵夫人は心にポッカリと大きな穴が開き、その穴を埋めるには随分と時間が掛るだろう。そして安倍さんの遺品を整理するたびに共に生きてき時間を思い出し悲しみは長く続くことになる。
安倍さんの死に哀悼の意を表するとともに、昭恵夫人の今後の人生が穏やかで幸せな時間に包まれることを心より願っている。また多くの人が不慮の死を迎えることなく、穏やかで静かな死を迎えることができるように願っている。