世界遺産に登録され石庭で有名な京都の龍安寺に、水戸黄門のモデルになった徳川光圀公が贈ったとされる蹲踞(つくばい)がある。蹲踞(つくばい)とは茶室の露地に低く置かれた石製の手水鉢のことで、茶客が茶室に入る前にここで手を清めるために設置されている。
その蹲踞には中央に水を溜めおくための四角い水穴があり、その四角い水穴の上下左右に漢字が刻まれている。四角い水穴は上下左右の4つの漢字の「へん」や「つくり」で「口」の部首にあたり、4つの漢字に「口」の部首を加えて時計回りに読むと、「吾唯足知」(われただたるをしる)と読むことができる。
この言葉はお釈迦様の「知足の心」を表しており、「足るを知ること」で自分の身分をわきまえむさぼりの心を起こさないことや、際限なく欲を求めるのではなく、自分の身の丈にあった必要なものと、その量を知ることを意味する。
人は今の自分が幸せなことを忘れてしまう生き物で、周りと自分をいつも比較し欲望や欲求が大きくなり、足りないことに頭を巡らせ自分がどこか不幸のように思えてしまう。世界中には70憶もの人が暮らしており、自分よりも幸せで豊かな人もいれば、自分よりも不幸で貧しい人も大勢いる。しかし毎日の生活に追われ自分の気持ちに余裕がなくなると自分を見失い、いつの間にか周りに流され不平不満が溢れ欲求を抑えることができなくなってしまう。
物心の付いた僕にお袋はよくこう言った。
「上を見りゃキリがない。下を見てもキリがない」
当時、僕はその言葉をなかなか理解せず洋服や時計など高級ブランドに憧れ、派手な飲食店で酒を飲み、お金を浪費する生活を送っていた。そして今より経済的に余裕のある生活を強く望んでいた。
しかし年齢を重ねると、以前のような強い欲求はいつの間にか小さくなり、物を大切に使うようになり無駄な物を捨てるようになった。
今年に入り新型コロナウィルスの感染拡大で外出することができず、自宅に籠る日が続くと外で酒を飲むことが全くなくなり、毎日、愛犬Q次郎と散歩に出掛け、風呂に入浴剤を入れ温泉気分を味わい、風呂上りに冷えたビールを頂くなど穏やかで小さな幸せを感じる毎日を過ごした。
新型コロナウィルスが僕に「吾唯足知」の心を強く教えてくれたように思う。
written by チュグアナ